ただ足踏みをするように
2026/5/27
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Diary
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Life

4月に予約してからずっと楽しみにしていたふぇみにゃんさんの占いに行く。
仕事のこと、今後予定している母親との同居について、それからもちろん恋について、いつもモヤモヤ考えていることをぽつりぽつり話し、聞いてもらいながら、ホロスコープを眺めているのは、とても豊かな時間だった。
ただ、「今は、あれこれ試してみる、経験していくのにいい時期」と聞いて、うーんと思ってしまう。最近は何をするにも腰が重くて、新しいこと、がなんだか怖いのだ。踏み入れたとて続けられるのか、とか、そこに生まれる人間関係に馴染めるのか、とか、疲れないかとか、いろんなことが。
実際、去年始めたピラティスは月4回コースで1万円払っているのに、先月は2回しか、今月は1回しか(現在5/29)しか行けてなくて、8000円もドブに捨ててる。がーん。
そんな私を見透かしてか、ふぇみにゃんさんが、「少しずつ試す感じで。あれこれやってみて、ゆらぎながら選んでいくのがいいと思います」と、言う。
「ゆらぎながら選んでいく」
それを聞いて思い出したのが、イーユン・リーの「自然のものはただ育つ」の中に出てきた「足踏み」の話だ。

彼女がオックスフォード英語辞典で調べてみると、「mark time(足踏み)」とは、「もとは、軍事用語。前進せずにその場で足踏みすること。〈比喩的に〉決まった行動をとること。形だけやるふりをすること。特に何かの機会を待つ場合に」とある。
彼女は10代の息子ふたりを自死で亡くしていて、この本は、その喪失と、「それでも生きていかなければいけない」なまなましい事実と現実、“奈落の底”の日々の中で書かれた。
“奈落の底”にいながらも、彼女の日々は続く(もちろん)。二人目の息子を亡くした後、彼女はピアノのレッスンを続けた。まわりにどうしてそんなことができるのかと問われても。
私たちは日々のほかの、どこで生きられるだろう。
人生の絶対の真理とはーーそれが奈落の底の人生であろうとなかろうとーー毎日その日に時(time)が刻まれ(mark)なければ翌日は来ないということだ。
ハノンの練習曲は弾くのは足踏みして時を刻む方法であって、ほかの活動もすべてがそうなのだ。ユークリッド幾何学の本を勉強すること。ピアノのレッスンに行くこと。夫と(二月の冷たい雨の中でも、四月のかぐわしいそよ風の中でも、六月の酷暑の中でも)真昼の散歩をすること。執筆すること。ソーダブレッドやヨーグルト・コーヒー・ケーキを焼くこと。バラの剪定をしたり肥料をやったりすること。新しい苗を植えること。うちの庭でご馳走にありついている生まれたての子ウサギに向かって大声を上げ、それでもやめさせられないのであきらめること、草むしりをさんざんやってから、ある日あきらめること。雑草も自然の一部であり、自然のものはただ育つのだから。

私はたぶん、あまり深く考えすぎずに、ただ日々を足踏みをするだけでいいのかもしれない。一体これが今の私のすべきことなのか確信が持てなくとも、多少疲れたとしても、それなのに前進していないように感じられても、“動こう”という意識があるならば、足踏みをしているならば、「何かの機会」は、きっと来るのだろう。“自然のものはただ育つ”ように。
修道女たちにとって、黙想(retraite)や念祷(contemplation)が「頭と心の祈り」なら、労働とは「手と足の祈り」だ、という話を聞いたことがある。彼女たちの日々は全て、神へ祈りを捧げることなのだ。
だけど、誰にとっても、生きていくって、そういうことなのかもとも思うのだ。冴えないつまらない日々の中で、ただ足踏みをしている。そのたんたんと時を刻む行為の繰り返しが、私をつくっていくということ。ゆらぎながらも、選んでいくということ。それを受け入れようじゃないか。




